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現場から切り開いた海外への道。そしてマレーシアへ 20〜29歳(1980〜1989年)編

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転がり込んだ彼との甘い結婚生活の一方で、私は懸命に働きました。

入社したばかりの私の姿。ジャケットの肩パットが時代を感じさせる。

入社したばかりの私の姿。ジャケットの肩パットが時代を感じさせますよね。

コーセーの美容部員は、百貨店や化粧品店などのブースに入り、お客様への商品説明と、使用方法の実演を行います。いわゆる「現場」の仕事であり、毎日毎日、お客様の対応に追われる日々でした。

現場には、本社から定期的に担当者がやってきて、いろんな話をしていくのですが、売り場での仕事がひととおりわかるようになってくると、私は次第に会社や組織の仕組みにも興味を持つようになりました。

親が料理店を営んでいたため、飲食店や理容室、お花屋さんといった、いわゆる自営業ならば何となく仕事内容が理解できたのですが、「会社」というものが、どんな仕組みで、何をやっているのか、よくわからなかったのです。現場に顔を出してくれる担当者ならまだしも、本社でいすに座っているおじさんたちは、一体何の仕事をしているのか、さっぱりわかりません。ましてや社長に至っては、すべてが謎です。

子どもの頃から続く、「それってどういうこと?」とすぐに聞く癖は、社会人になっても健在で、今も基本的に変わってないんですね(笑)。

何をしているかわからない人たちのほうが会社では偉く、いい車に乗ったり、いい服や時計を身につけている。当時の私の夢だった、「白いフェアレディーZから、白いドレスと白いハイヒール姿で颯爽と出てくる女性」になるには、いつか社長になるしかないな……、そんなバカなことを本気で考えていたのもこの頃です。

さて、当時のコーセーは、他の日本企業同様、高卒と大卒、現場と本社という見えない壁がありました。

現場で必死に仕事を覚え、どんどん売上を増やしていく一方、この先の自分がたどり着けるゴールが、入社の段階でほぼ決まっているという事実に、ある種の憤りと反発を抱くようになります。そんな頃、本社の中に海外事業部があることを知り、私の心に闘志の炎が灯りました。

「いつか必ず海外事業部へ行く」

私は猛烈に働き、数字を伸ばすと、すぐに現場のトップに躍り出ました。さらに、そこから本社への切符を手にすべく、責任のあるポストをこなし、本社の担当者に会うごとに、「海外事業部へ行きたい」と呪文のように繰り返し言い続けました。

そのチャンスは昇進試験として訪れ、目論見通り合格を勝ち取った私は、直球勝負で道を切り拓くことにしました。昇進後のヒヤリングで、本社、それも海外事業部への配置を直談判したのです。

当時、現場から本社の海外事業部に配属された女性は誰もいませんでした。しかし、前例があろうがなかろうが、私の気持ちに変わりはありません。前例主義の壁に風穴をぶち開け、海外事業部への配属が決まったのは、結婚からすでに八年近い月日が経っていました。

常々「海外へ行きたい」と言い続けていた私を、夫は理解し、応援してくれていましたが、私の中では仕事と家庭は切り離していたため、海外へ行くなら一人で行くつもりでした。会社もまた既婚女性の海外赴任を認めておらず、つまり、自分の望む海外事業部行きは、夫婦生活の終了を意味していたのです。

新しいスタートと引き換えに、私はひとつの幸せを手放すことに決めました。

心機一転で迎えた海外事業部配属でしたが、この頃の私は日常会話はおろか、自己紹介も怪しいレベルの英会話力しかありませんでした。それでも、いろんなことが勢いと熱意でクリアになっていくから不思議です。まず手始めに任されたのは、シンガポールとマレーシアにあるコーセーの店舗です。私はメークアップアーティストとして、現場の接客と指導を担当することになりました。

着任期間は三か月。長期海外出張という形でした。

この間に複数の店舗を回り、各地の人や気候、食事などに触れたことで、すっかり東南アジアに魅せられてしまいました。日本に帰るのが嫌になった私は、「出張ではなく、現地に駐在させてくれ!」と会社に直訴し、シンガポール駐在を獲得。ここを拠点に東南アジアの店舗を回る生活を二年間続けました。

着物姿でコーセーのお店を回り、接客を担当していた頃。

着物姿でコーセーのお店を回り、接客を担当していた頃。

ブルネイ・ダルサラームの店舗に来ていたときのことです。
ここは当時、東南アジアで精力的に出店していた百貨店、ヤオハンアジアの中にテナントとして入っていた店舗で、私は日本の化粧品会社ということを強調するため、毎日着物姿で接客に当たっていました。

お店に来てまだ間もない頃、店舗の中を見てみようと、休憩中にヤオハンの売り場を眺めて歩いていた私はあるものに目を奪われます。私の視線の先にあったもの、それは着物コーナーでした。それを見た瞬間、頭の中で何かが閃き、気がつけば周りにいたヒマそうにしている若い女性スタッフに声をかけていたのです。

まず、彼女たちに着物を着せると、お客様が目を引く場所にずらーっとならんでもらいました。そして、お辞儀をしながら「いらっしゃいませ」という、いわゆる日本式の接客をレクチャー。そのまま私も一緒に並んで、入店してくるお客様に声かけを始めたのです。着物の物珍しさや、現地スタッフの着物姿、そして日本式の接客スタイルが、あっという間に評判になり、着物売り場の売り上げは倍増しました。

今思えば、自分の仕事と一切関係ないことに首を突っ込んでしまうのも、そしてそれが大化けするのも、昔からずっと変わらないのかもしれませんね(笑)。

結果的に着物売り場の人気は、同じく着物で接客している私の持ち場にも波及し、コーセーの売上もしっかり伸ばして次の担当地、マレーシアのコタキナバルへ向かったのでした。

後から聞いた話ですが、この様子がヤオハンの創業者である和田一夫さんの目に止まっていたそうです。人の目はどこにあるかわかりません。

さて、コタキナバルから日本に戻ってきて、いつものように事務処理に追われていると、ブルネイでお世話になったヤオハンのブルネイ現地社長から直々に連絡がありました。要件を聞いてみると、ブルネイでお世話になったお礼に、日本でご飯をご馳走したいとのこと。「なんで?」と思いながら、連れて行ってもらった場所は、かに道楽です(笑)。

身のたっぷり詰まったかにをほじくり出しながら、社長はおもむろにこう切り出しました。

「ヤオハンに来ませんか?」

あまりに突然の話に、冗談だと思って笑い飛ばした記憶があります。
そもそもコーセーを辞めるつもりはまったくありませんでしたし、百貨店のこともあまり詳しくなかったからです。どうしてこんな私にそんなことを言ってくるのか、全然わからずにいたところ、ボルネオでの一連の接客や、集客アイデアが高く評価されていると伝えられました。

しかし、この時の私は、高校卒業という最終学歴をステップアップさせるため、イギリスの大学へ留学することを決めており、そのための資金がちょうど貯まったところでした。最後までいうべきかどうか迷いましたが、その話を正直に社長に伝えたのです。

その時、社長が私にいったことばは、その後の私の働き方に大きな影響を与えました。

「ミサヨさん、本当の学びはお金を払って得るものではなく、お金を貰いながら得るものだよ」

私の心は激しく揺さぶられました。大学へ進学できずグレかかった高校時代や、会社に入ってからの学歴にまつわる目に見えないモヤモヤとした壁が脳裏に浮かびます。これらを払拭する足がかりとして、私は留学を考えていたのでした。一方、お金を得ながら学ぶことの威力は十分にわかっていました。物事に取り組む姿勢はまったく違いますし、お金をいただく以上、常に相手の期待以上の成果を出そうと努力し、いろんなことを貪欲に吸収していくからです。

私は悩み、そしてその場は丁重にお断りして、店を後にしました。

ところが、向こうも本気だったのでしょう。
今度はコーセーの取締役クラスと話をつけ、「コーセーを3年間休職扱いで、ヤオハンアジアへ転職させる」ことが、私の上の世界でほぼ決まってしまったのです。

さすがにそこまでされては断るわけにもいきません。
私は覚悟を決め、当時付き合っていた彼を喫茶店に呼び出し、「ごめん、私海外行ってくる」と伝えました。海外旅行にでも行くと思ったのでしょう。「ああ、そう。いってらっしゃい」と笑顔で返す彼に、私は一言。

「いや、もう戻ってこないから、別れて」

笑顔の消えた彼の右手には、まだ開けたばかりのセブンスター。右手で静かに握りつぶすと、
「勝手だな。」
そう言って去って行きました。

今思えばひどい女ですよね。

でも、それくらい仕事に本気だったのだと思います。
今よりずっと若かったし、カミソリみたいに尖っていましたし・・・・、あ、顔も(笑)。

まあ、そんな感じで、20代のミサヨは、30歳の誕生日まであと数日というタイミングで、スーツケースひとつもって日本を出ました。

どうしても20代のうちに次の人生のスタートを切りたくて、私はとても急いでいました。そのため、準備期間もほとんどなく、挨拶もそこそこに日本を飛び出ていく形になったのです。日本側がこんな具合ですから、赴任先は私が来ることすら知らされておらず、これが後に大きな問題になるのですが、この時の私にはそれを知るよしもありませんでした。

>第4話に続く

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