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最初から“波瀾万丈”の幼少期 0〜9歳(1960〜1969年)編

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私が生まれたのは、昭和35年7月28日。

母、洋子との1枚。 この時、5歳くらい? これより、まだ幼い頃に、東京から一人、北海道へ向かった。

母、洋子との1枚。
この時、5歳くらい?
これより、まだ幼い頃に、東京から一人、北海道へ向かった。

前の年に皇太子と美智子様が結婚し、昭和が一気に輝きを放っていった時代です。家は工場の建ち並ぶ大田区にあり、景気の勢いに合わせて町も勢いづいていましたし、事業をしていた両親のもと、割と裕福な環境でした。しかも長女だったので相当甘やかされて育ったのですが、3歳の時、親の事業が傾き、生活が激変しました。

「このままでは娘が養えない。」

そう思った母は、現代ではとても考えられない暴挙にでます。

母と2人で来たのは、とても大きな駅でした。
小さな背中に小さな荷物を背負わされた私に、母はタスキをかけます。そのタスキにはこう書いてありました。

「この子はさとうみさよ。これから祖母の○○○の家まで行きます。住所は北海道根室市○○○。皆様どうか無事に送り届けてあげてください」

母の実家は北海道の根室で料亭を営んでいたため、東京で娘に苦しい暮らしをさせるくらいなら、祖母のもとで育った方がましとの判断だったのでしょう。しかし、自分が行き来するための交通費は工面できない……。
母の苦渋の選択でした。

母は大事な切符を私のリュックにしまい、上野駅のホームで旅立つ私を1人見送っていました。
夜行列車の中の私は、それこそ美空ひばりみたいに、歌ったり踊ったりして車内の人気者だったようで、北海道の祖母の家についた時、両手で持ちきれないほどのお菓子やお土産を、代わりに駅員さんが持って送り届けてくれたそうです。

この経緯は後に祖母や母から聞かされ知ったのですが、ただ1つ、青函連絡船で北海道に渡る時の暗くて寂しい雰囲気の記憶だけはしっかり残っています。

それから数年たち、両親も北海道へ戻ってきて食堂を始めました。ラーメンや定食などの食事のほか、会社のお昼向けに弁当の宅配もやっていて、毎日朝から晩まで休みなく働いていました。
7歳年下の妹も生まれ、当時、小学校の低学年だった私は、お店の留守番を頼まれるようになりました。ある日、店の電話が鳴ったので取ってみると近所の常連さんからラーメンの注文。ところが、両親は弁当の配達中で留守。

そのまま厨房へ向かった私は、日頃両親がやっているのと同じようにして、見よう見まねでラーメンを作り、おかもちに入れて配達。「まいどあり!」と元気にお金をもらって帰ってきました。

「よっしゃ、こりゃ褒めてもらえる!」とワクワクして親の帰りを待っていたら、
「ばっかもーん!!!」というなり、首根っこつかまれ、常連さんの家へ(笑)。

平謝りする父に「え、ラーメンおいしかったよ!」と言ってくれた常連さんの笑顔が忘れられません。

結果的に、これが初めて自分で働いてお金をいただいた経験となりました(90円!!!)。

>>第2回へ続く

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